この記事は、両親を心のどこかで許せない人や、またそんな自分自身を許せない人に向けて書いています。
どうか、そんな心優しき人に幸ありますように。
やっぱり両親が好きになれない
私が「物理的に」大人になれたのは、両親が私にご飯を食べさせてくれたおかげです。
その感謝の気持ちに、嘘はありません。
でも、両親のことが好きか? と聞かれたら、困ってしまいます。
私はどうしても両親のことが好きになれないのです。
そして、私が両親のことを好きではないことを、両親は知っています。
でも、面と向かってそれを私が言葉にしたら、彼らは立ち直れないくらいに傷つくでしょう。
老いた両親に、そんな言葉を浴びせるつもりはありません。
この感情は言葉に現さず、ずっと心のうちに抱え続けるのです。
私が死ぬまで。
3行日記に感謝を記していたこともあった
ある時、1日の終わりに3行日記を付けていました。
その日に感じた「ありがとう」を、なんでもいいから綴るのです。
身近な人でもいい。物質でもいい。神でもいい。森羅万象でもいい。
漁師さん、美味しい魚をありがとう。
同僚のみんな、今日も一緒に働いてくれてありがとう。
そんな感じです。
その中の1行に、必ず両親への感謝を綴っていた時期がありました。
私を育ててくれてありがとう。
幼いころに連れて行ってくれた旅行、楽しかったよ。
食べさせてくれた美味しい料理、感謝してるよ。
記憶の中から、感謝の気持ちが沸き上がります。
時には涙が込み上げてきたことも。
大人にしてくれてありがとう。自分は愛されていたんだね。そう口にしたり。
・・・。
でも、だめなのです。どこか白々しく、冷めている。
やっぱり、どこかで許せていない。
子どもの頃の、こんな光景を覚えています。
そこには、愛情に対する私の渇望があります。
内向型の人の性質によくあると思いますが、私は父と母の顔色を気にしすぎるくらい気にする子どもでした。
早熟といえばそうだったのかもしれません。同年代よりも大人びていました。
顔色ばかり窺うから、相手の感情が分かってしまう。
朝、カーテンを開ける前の暗い寝室の中で、母は布団の上に座って微動だにしません。
泣いているみたいで、鼻をすすっています。
「あぁ、母は今の生活に満足していないんだ。自分を生んだことを後悔しているのかもしれないな」
薄目を開けながら、母のことを不憫に思いました。そして自分を責めていた。
実際に生意気で、言うことを聞かず、兄弟とケンカばかりしていた子でした。
自分が親だったら、控えめに言っても、可愛くない子だったと思います。
「ヤフー知恵袋」の言葉に救われる
両親に対する「感謝」と「憎しみ」。
この対立する感情を自分の中に併せ持っている人って、いるのだろうか。
ある時ふとそう思って、インターネットをさまよっていました。
・・・いるんですね。ヤフー知恵袋を見て、自分と同じ種類の人がいるんだと知りました。
なによりもこの「ベストアンサー」の方の、深く、するどく、優しい洞察を読んで、自分の感情が救われた気がしたのです。
少し紹介してみますね。
肉親に対する「許せない」という気持ち、感じたことのない人はずっと感じないままだろうし、一方で、それを感じてしまった人がその感情を完全に払しょくするのはとても難しいはずです。
本当にそう思うのです。
感じたことがなければ、触れる必要のない「許せない」という感情。
逆にひとたびその感情に気付いてしまったら、生涯消えることはありません。
「親がいかに大変な思いをして子供を育てたか」ということを知っているかどうか、 あるいはそれに対する感謝の気持ち、 それがあろうと尚「許せない」という気持ちと「ありがたい」という気持ちはまったく別の根拠から発生するもので、 「親のありがたさ」について、あなたが全く感じていないというわけではないと思います。
そう。感謝はしているのです。でも許せない。
この対立する心を上手に処理することができないだけ。
ありがたいのも真実だし、許せないのもまた真実。
これら別々の感情を一緒の部屋に住まわせようとするから、ややこしいのです。
その両方を融合させる必要はなくて、それぞれ独立した感情として、受容だけしておけばいい。
赤は赤のまま。白は白のまま。無理やり混ぜて灰色(中間色)にする必要なんてないのです。
あなたが何かを「許す」「許さない」「許せない」という感情は、あなた以外の誰にも触れることができない部分です。
心のヒダの奥側にある、本当に繊細な部分。不可侵な領域。
そう。この感情は私だけのものです。
誰かに良い悪いと評価されるものでも、裁かれるものでもない。
ただただ自分が抱えているだけの、行き場のない感情なのです。
つきつめていくと最後に辿り着くのはきっと、「許せない自分」を許せるかどうか…だと思います。
優しい言葉だな、と思いました。
親を許せない自分を、どうしても許せない。
そんな自己嫌悪の状態がずっと続いていて、どうして自分はこんなにひねくれた人間に育ったんだろうと、疑問にすら思いました。
でもそれをもし許していいなら、救われます。
大人になったら親の苦労が分かるとか、言われたことはないでしょうか?
私にも子どもができて、もちろん、両親の苦しみ、あの時両親が感じていたこと、将来への不安などの感情をリアルに理解することができました。
どれほど苦労して自分たちを育ててくれたのだろうかと、自然に湧き出る感謝。
ご飯を食べさせるということが、どれだけ大変なことだったかーー。
子ども3人分を大人にすることが、どれほど大変なことだったかーー。
しかし…。
やはり、私は両親を心のどこかで許せないのです。
結局それは、この一言に収れんするのです。
おとんもおかんもさ、おれのこと・・・好きじゃなかったよね。
でも、私も同じようなもの。
私だって、愛情深く子どもを育てられていません。自分でもそれはわかる。
何か大事な部分が欠落しているのです。
だから、長女は私のことが嫌い。
将来、「あんた、私のこと嫌いだったよね」と言われるのかもしれません。
ひょっとしたら、もっと激しい言葉を浴びせられるかもしれません(十分にあり得ます)。
でも、それはそれでかまわない。私は子どもから感謝してほしいなんて、みじんも思わないのです。
私の両親は、いつも見返りを求めた。「育ててあげた」ことに対する感謝を求めた。
でも、私は違う。絶対に彼らとは違う。
きれいごとじゃなく。
強く願うのは、娘に幸せになってほしい。
自分の感情を大事に生きてほしい。
娘が自分のことを、娘自身の人生を、ただひたすらに愛してくれればいい。
本当にそう思うのです。
感謝と憎しみの感情は、それぞれ「別モノ」として扱えばいい
このしつこく居座る2つの感情は、それぞれ独立した感情だということが分かりました。
感謝 と 憎しみ、感謝 対 憎しみ 、みたいな構図にするからややこしいのです。
一緒に混ぜる必要も、対立させる必要も、ないのです。
どちらが正しいわけでも、間違っているわけでもない。
生涯そのままに生きていけばいいと思うのです。死ぬまで放置しておけばいい。
ちょっと重いトーンになってしまいましたが、最後までお読みいただき、ありがとうございました。
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