妻と散歩しながら、「少しだけ非日常」の時間と空間を味わう

散歩は「少しだけ非日常」を味わわせてくれます。

一生懸命だった自己啓発に疲れ果てて、週末を自宅で過ごすことが多くなりました。
私はいまプラトーにいるみたいです。何かやってみようとはするものの、前に進んでいる気がしないのです。

子供たちも、親と過ごすより友だちと過ごす方が楽しい年ごろ。週末は不在が多くなりました。
そこで私、もともと好きだった散歩に、妻を誘って出かける機会が増えました。

散歩は楽しい! とても地味に思えるでしょうけれど、私にとっては趣味だといえます。
自分にとっての散歩の意味を考えてみました。

目次

目的はない。ただ歩くだけ

本当に、2人で歩くだけです。
コミュニケーションとかを目的にしているわけではありません。

ただ歩くのが楽しい。それだけです。

木々を見れば季節の移ろいがあり、公園の中を歩けば、一回り下の世代の親たちがお子さんを連れて遊んでいます。
少しずつ老いているんだなぁと、悲観するでもなく、ただ淡々と死が近づいていることを受け止めます。

妻と取り留めもない話をしながら歩き続けます。

本当に、2人で歩くだけ。周りから見れば、なんて退屈な夫婦でしょう(笑)。
すれ違う夫婦たちは、大半はペット連か子ども連れ。夫婦2人で歩く人たちって、あまり見かけません。

だいたい1時間ほど歩いて、最後に買い物をして帰るというのが散歩のパターンです。

部屋の中から出ることの効果

私は部屋の中にいるのが辛いのです。
どうしても、使う言葉が日常生活に染まったものばかりになってしまう。

たとえば、こんな感じです。

  • 昼ご飯どうする?(←朝ご飯をすぐ食べた後!)
  • 洗濯物って干した?
  • トイレットペーパー、足りてたっけ?
  • お母さんから何かの荷物が届いたよ


読んでいるだけで、生活の範囲が狭まる気がしませんか?

どうしても人間、生活の中にどっぷり浸っていると、そのための言葉しか使わなくなるようです。
日常の時間や空間からアウトフレームすることは、とても意味があります。

時には踏み込んだ話も

歩いていると、わりと核心に触れるような話もあります。

自分のことでは、FIREしたいこと。いずれ独立したいこと。

夫婦のことでは、どんな老後を送るのか。年金での生活を2人で試算してみたり。
子どもが社会人になった後の、終の棲家に思いをはせてみたり(近くにある老人ホームの前を通ると、そんな話になりがちです)。

子どもたちのことでは、いつまで一緒に暮らすのか、どんな人と結婚するかなど(笑)

時には資産形成の話になり、夫婦のベクトルが合ってないんじゃないか、なんて話も出たりします。
そういう時は、軽く言い合って、その後はお互い無口になります。

でも、その後スーパーで買い物をして、ターメリックやら鶏肉やらを探している間に、元通りになります。
また何事もなかったように歩いて帰ります。

散歩はちょっとした非日常

日常の中にあるちょっとした非日常。
散歩って、そんなことに気づかせてくれるものなんじゃないかな、と思います。

ほんの少し、普段は通らない道に足を踏み入れてみる。
ほんの少し、現代から過去へタイムスリップしてみる。
ほんの少し、隣にいる人との今後の人生について考えてみる。

車だったら絶対に見落とす風景。
歩いているからこそ出会う光景。
懐かしい小径。

ゆっくり歩くからこそ、思い出す過去の記憶。
浮遊する思念と巡り合う。どこかでかいだ匂いに嗅覚が反応する。

ほんの少しーー。日常生活から少しだけ外れたところに、非日常が存在しているのだと思います。
今までは忙しすぎた。意図的に忙しくしてきた。まるで何かから逃れるように。

これからは、静かに流れる時間と空間を、大切にしていきたいと思います。
さて今週末も、秋の空の下を妻と散歩しようかーー。

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