私は高校生の頃から、約30年間赤面症と付き合っている。
結論からだが、私の赤面症はまだ治っていない。
心理学の本をかたっぱしから読み、自信をつけるために、自己暗示、難しい資格取得、筋トレなんかもやった。
そこで分かったのは、赤面症は治らないということ。
いや、治るのではなく「忘れる」ものだと悟った。
自然と湧き出る感情を抑えようとすることは、神に逆らう行為に等しいんじゃないか、とも思う。
一方で、高校生や大学生の頃に比べると、その症状は緩和してきている。
単純に年齢を重ねたからという理由もある気がするし、
長い年月をかけて自分に折り合いをつけることができてきたから、という気もする。
前置きが長くなったが、以下が症状が少しだけマシになった3つの理由だ。
私の赤面症が改善した3つの理由
①他者(共同体)に貢献する
1点目の改善理由。これが一番大きいかもしれない。
共同体の一部という感覚を意識し始めたことだ。
アドラー心理学でいう「共同体」。自分は1人で生きているのではない。
たとえば、共同体(の場面)にはこんなものがある。
- 家族で生活を営む
- 会社の同僚と協力して、目標達成を目指す
- 様々な公共サービスを利用する
家族は会社はイメージしやすいが、公共サービスだってそうだ。
電車に乗るにも、図書館を利用するにも、そこには誰かの「献身」がある。
目的地に時間通りに到着できるのは、そこで働く人々が労働力やシステムを駆使してサービスを維持してくれているおかげだし、
図書館で目当ての本を探す時にも、従業員さんが棚を手入れしてくれているからだ。
私は1人で生きているのではない。
だから、自分も共同体に貢献しないといけない。
そんな当たり前の感覚。
この感覚を少しだけ持てるようになったことが、自分の症状への過度な集中を和らげてくれている気がする。
②こうなってしまった「原因」を探らない
2点目の改善理由。
私はことあるごとに、「自分が上がり症になったのは両親のせいだ」と思っていた。
原因論、というやつだ。
私はこんな子どもだった。
- 親の顔色を窺う。親が嫌いなテレビ番組は、自分も見ない。
- 親の誇りになろうとする。勉強でもスポーツでも、よい順位を取る。
- 親の愛情を獲得しようと頑張る。だから、姉や弟に負けたくなかった。
私が自分軸で生きられないのは、こんな子供時代から生まれたのだ。そう思っていた。
いや、ある視点から見れば、そうかもしれない。
たとえばフロイト的に原因を探れば、もしかしたら私の子供時代の抑圧が「因」で、
赤面症状が「果」として出ているのかもしれない。
原因論は、説明材料に事欠かない。
親のせいだの、子ども時代の経験のせいだの、なんとでも言えてしまうのだ。
でも、それでは何の解決にもならないと気づいた。
不幸な自分の原因を親との関係の中に見出して、いったい何になるだろう。
アドラー的にいうと、むしろ私には「赤面症を使う目的」があった。そう思う。
大学時代に不登校を2年間経験した。
ここには目的があった。
- 人間関係で傷つきたくない
- 人からバカにされたくない
- 人の輪の中にいたくない
そのために、赤面症を使った。
私にとって赤面症は、学校に行かないという目的を果たすための、ちょうどいい理由だったのだ。
つまり、大学に行かないための隠れ蓑にしたのだ。手ごろなツールだったのだ。
大事なのことは、原因論に陥らないこと。
原因論は解説に事欠かないから、短絡的な結論に結びついてしまいがち。
また、近しい人に責任転嫁しがち、という面もある。親や兄弟、妻や夫などがそうだ。
隠れた目的があって、そのために症状を使うーー。
そんな自分の思考癖に思い当たり、原因を探るのをやめた。
そういえば大学生の頃、勇気を出して学内のカウンセリングルームを訪れ、臨床心理士に悩みを打ち明けたことがあった。
どうして自分はこうなってしまったのか? その原因を探しているんです。
伏し目がちに、そんなことを話したと思う。
それに対する臨床心理士の言葉を、いまでもよく覚えている。
原因か・・・。でも、原因を探すのって、そんなに大事なのかな?
その言葉の意味が、いまではよくわかる。
③症状は無視。やるべきことに集中
3点目の改善理由は、症状を無視するということ。
私は10人以上の会議やプレゼンがダメだ。それ未満なら、なんとかこなせる。
でも、10人以上だとかなりの確率であがってしまう。
そんな時は、事前に粗い台本を作ったり、時には抗不安薬を飲んだりもする。
でも、そんな時、自分って誰を見て話しているの? と、ふと気づく。
それは、自分自身。自分の一挙手一投足に目を向けている。
赤面しないか、汗をかかないか。
声がうわずらないか、震えないか。
ヨワヨワな自分を人に悟られないか。
ちがう。絶対に違う。
発表の目的は、人に対して「伝えること」。それも、分かりやすく。
伝えることが本当の目的のはずなのに、私はいつも自分ばかり見ていた。
内容がない発言でも、スラスラ言えさえすれば及第点だった。
私が大学生の頃、学生の書いたレポートを読んだ恩師が、こう嘆いたことがある。
読み手のことを何とも思わない、読者不在のレポートが増えている。それも4年生にも少なくない。
日本はどうなるのかと心配になる。
当時の私もそんなレポートを書いていたかもしれない。
でも、書く場面だけではなく、話す場面においても同じことが言える。
いままでの私がそうだ。
聴き手不在の、あがらないことが目的のプレゼン。
自分がスラスラ言えることだけが評価軸の、自分本位の発言。
だから、最近はその反省を生かして、考えを改めつつある。
赤面したって、いい。声が震えたって、いい。
いまここにいる人たちに、伝えること。分かりやすく伝えること。
それ以上のことはない。
あがるかどうかは、どうでもいい。置いておけ。
まとめ。赤面症は治さなくていい
あらためて、以下が今日のまとめになる。
- 他者(共同体)に貢献
- こうなってしまった「原因」を探らない
- 症状は無視。やるべきことに集中
赤面症は治らない。治せない。本当に、そう思う。
むしろ治そうとすると、逆効果。
神経症は、逆説的で、天邪鬼(あまのじゃく)なやつ。
治そうと頑張れば頑張るほど、治らない。
逆に、忘れてしまって、何かに没頭すればするほど、症状は「緩和して」いく。でも、完治はしない。
あがり症、赤面症、多汗症。
これらの症状、経験に、どのような「意味づけ」を加えていくのか。
あがってしまう自分に、どうやって「許し」を与えていくのか。
私が気に入っているこの書籍は、その解決策を示してくれる。
私もいつか人を支援できる人に、なりたい。
最後までお読みいただいて、ありがとうございました。
コメント